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美濃部憲法学を読む

帝国憲法から日本国憲法まで、「日本の憲法」について考えるブログです。

『憲法講話』1-2 政体の種類 4.立憲政体の沿革

『憲法講話』原文

 立憲政体の沿革

 此の如き意義に於ての立憲政体は、其の初は先づ英吉利に於て発達した制度であつて、其の広く世界各国に行はるゝに至つたのは、第十八世紀の後半期以後、第十九世紀中に在ります。前に述べたやうな貴族、僧侶及び市民等の特権ある階級の会議は、英国のみならず、西班牙、仏蘭西、独逸等の諸国は、中世以来何れも之を備へて居つたのであるが、他の諸国に於ては其の会議は近代に於ける中央集権の傾向の盛になつたと共に、或は全く消滅し、或は有名無実のものとなつたのに反して、独り英国に於ては、其の会議が漸次発達して、初は特権階級の代表者に過ぎなかつたものが、後には全国民の代表者たる性質を有するに至り、近代的の国会に変ずるに至つたので、英国に於ては千六百八十八年の革命以後は略近代的意義に於ての立憲制度が確立したものと言つて可いのであります。

 其の後第十八世紀の後半期に、亜米利加に於ける英国の殖民地が、英国から分離独立して、各々独立の国家となり、次いで今日の米合衆国を組織したのでありますが、米国の制度は英国の制度より出でゝ、更に一層之を極端にし、純粋の民主政体を作つた。近世的の民主政体の模範は実に此の米国の制度から出て居るものと言つて可いのであります。

 欧洲大陸に於ては、第十八世紀末の仏蘭西の大革命に依つて、仏蘭西に於て先づ最初に立憲政体を採つた。仏蘭西は是より後屡政体の変遷があつて、大革命の初には、尚ほ王政を維持して居つたけれども、間もなく王政を顚覆して、共和政治となり、次いで奈破倫の執政政府となり、進んで奈破倫の帝政となり、千八百十四年に奈破倫の没落の後は、又旧「ブルボン」王朝の王政復古となつて、英吉利風に倣つた立憲政治を行つたが、千八百三十年の革命に依つて又「オルレアン」王朝に変じ、千八百四十八年の革命には更に其の王朝を倒して、第二共和政治となり、次いで奈破倫三世の第二帝政政府となり、普仏戦争の後帝政政府が倒れて、一時仮政府が立てられ、千八百七十五年に至つて現行の憲法が作られて、今の第三共和政治の世となつたのであります。

 仏蘭西の政体は大革命以後此の如く屡変遷したけれども、欧洲に於ける立憲政体の普及に付ては、仏蘭西が常に其の先導者たる地位に在つたので、欧洲大陸の諸国は直接に英国の制度に倣つたよりも、寧ろ仏国の影響に基いて、十九世紀の中頃迄に、其重なる諸国は相次いで立憲政体を採るに至つたのであります。

 日本に於ても亦明治二十三年に始めて国会が開設せられ、立憲政体を採ることになつた、是が東洋に於ける最初の立憲国であります。二十世紀に入つては、恐らくは日露戦争の刺激に因つて、露西亜土耳古等の諸国も国会を開設することゝなり、更に進んでは支那の革命となつて、支那も民主政の国となり、此の如くして世界の重なる文明国は、或は民主国たるか、然らざれば皆立憲君主政体を採ることゝ成つたのであります。

 立憲政体が将来永遠に亘つて変更すべからざる理想的の制度であるや否は固より断言し難い所でありますが、少くとも今日の状態に於ては、是が世界に於ける動かすべからざる大勢であることは争ふべからざる所であつて、又国民の自覚心から生ずる当然の要求と言はねばならぬのであります。将来此の制度が如何に変遷して行くかは容易に予想し難い問題でありますが、是が更に復旧して往時の専制君主政体に返るといふことは、今日に於ては到底想像すべからざる所であります。

 

 

 ※美濃部達吉憲法講話』(大正7年)p40-42

  古字及び旧字体を新字体に改め、改行を加えた外は原文のまま。

  本文中の傍点は、「﹅」を太字、「○」を青字、「●」を赤字で表した。