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美濃部憲法学を読む

帝国憲法から日本国憲法まで、「日本の憲法」について考えるブログです。

『憲法講話』1-1 国家の性質 2.君主説の本義とその誤謬

『憲法講話』原文

 第一種の見解-君主説

 第一に、国家を以て一人の持ち物の如くに考へ即ち天下は一人の天下なりとする思想は、東洋に於ても西洋に於ても、種々の時代に屡見はれた思想であります。

 此傾向に属する学説にもいろいろあつて、或は神授君権説ともいふべき説が有る。是は国家の存立の根拠を一に神意に在るものとなし、君主は神から授けられた権力を有するものであるとする説であつて、殊に東洋に於て広く行はれた説であるが、西洋に於ても専制的王権時代に於ては屡主張せられた所である。学者の中には英のフィルマー、仏のボスウェー、独のスタールなどはその代表者となすべきものである。

 或は実力説ともいふべき説が有る。それは国家を以て、強者が実力に依つて弱者を服従せしめて居る状態であるとする説であつて、即ち国家の存在の根拠を以て一に強者の実力に在るとなすものである。之と類似の説に又統治者説と称せられて居る説も有る。それは君主は統治権の主体であつて土地人民は統治の目的物であるとする説であつて、近頃の独逸の学者の中で、ザイデル、ボルンハツク、リングなどは其の代表者として知られ、日本に於ても可なり広く行はれて居る説であります。

 

 君主説の本義

 是等の説は其形はいろいろに異つて居るが、帰する所は何れも君主と国家との関係を以て恰も所有主と所有物との関係の如くに見るのであつて即ち国家が君主の持ち物であると解するのであります。勿論其の関係は所有権の関係ではなく、統治権の関係であるといふ相違はあるが、兎に角君主が統治権の主体であつて、国家は其の目的物であると見ることに於ては、所有主が所有権の主体でなり、物は其の目的物であるのと全く同一の関係に在るものとするのであります。換言すれば、国家はそれ自身に目的を有する活動体ではなく、唯君主の目的の為にのみ存し、君主の統治の力に依つてのみ維持せらるゝ者であるとするのであります。

 此の如き見解は、西洋の封建政治の時代に於ては、一般に西洋諸国の人心を支配して居つた思想であります。封建政治は武力政治の時代であつて、武力の強い者が土地を侵略し人民を征服して帝王となり、其の武力の続く間は之を維持して、其土地人民を自分の世襲財産の如くに子孫に伝へたのであつて、学者は斯ういふ時代の国家を家産国と称して居ります、日本に於ても封建時代の諸侯の領地に付いては略同様の思想が行はれて居つたやうであります。

 

 君主説の誤謬

 併ながら此の如き見解が健全なる国家思想と相容れないことは、今日に於ては更に疑を容れない所であります。

 君主が統治権の主体であつて、国家は其の目的であるとするのは、譬へて言はゞ国家を以て羊の群の如きものとし、君主は牧羊主の如き地位に在るとなすものである。牧羊主は固より出来るだけ其の畜つて居る羊を保護し其の繁栄を計るであらうけれども、それは唯牧羊主自身の目的の為にするのみで、羊と牧主とが共同の目的を有し、協力一致して其の目的を達しようとするのではない。羊の群は唯牧主の支配の目的物となつて居るのみで、牧主と群羊とは権利主体と客体との関係に在るものである。君主が統治権の主体であり。国家はその目的物であるとするのは、即ち君主と国家との関係を以て之と同様の者であると考へるものに外ならない。

 併ながら国家を以て恰も羊の群の如くに君主の一個人の目的の為のみに存するものであるとすることは、その健全なる国家思想に反することは、今日に於ては何人も疑はない所であらう。国家は決して君主の個人的の目的の為に存するものではなく、君主も臣民も共同の目的を有し、臣民は君主を輔翼し、君主は臣民を指導し、上下心を一にして、協力一致其の共同の目的を達しようとするのであつて、国家は此の共同の目的の為に存する永遠恒久の団体である。国家は決して羊の群の如くに、他の目的の為に存し、他の者の支配の目的物となつて居るものではなく、それ自身に目的を有し、其の目的を達する為に活動するものであつて、君主の統治は即ち此の国家全体の目的の為にするものに外ならないのである。

 それであるから、此の第一種の傾向に属する見解は、今日の国家思想の下に於ては、断じて排斥すべきものであります。

 

 

 ※美濃部達吉憲法講話』(大正7年)p3-7

  古字及び旧字体を新字体に改め、改行を加えた外は原文のまま。

  本文中の傍点は、「﹅」を太字、「○」を青字、「●」を赤字で表した。